研究業績の概要 コマシンスキ・アンドリュー

Home |  CV |  Teaching Experience |  Philosophy |  Philosophy Teaching |  English Teaching Resources |  履歴書 |  academia.edu profile |  research map 

研究業績

本ページに、私が拙稿した研究業績の日本語の概要をおいております。 履歴書の全体をみるのはこちらです。
Kierkegaard’s Defence of Faith as Second-Order Partialism and Critique of Impartialism
Katherine Dormandyにより、キルケゴールは anti-epistemological partialist (非認識論的部分主義者)である。本研究に、『おそれとおののき』は2条部分論には根拠と合理を参考にして、絶対に関係がある個人として、それを超える2条部分論になっていると論じる。
Australasian Philosophical Reviewに投稿しました。
Hegel's Complete Views on Crime and Punishment
 本論文では、ヘーゲルの完全で成熟した刑罰論は『法の哲学』の「抽象的な権利」の章にある「犯罪」箇所のみの解釈よりも堅牢で柔軟であることを論じる。まず、現代の刑罰についての議論にでは、ヘーゲルは単なる報復主義者とみなされているため、見直すべきであると論じる。続いて、ヘーゲルの「抽象的な権利」の章にある犯罪と刑罰の扱いに関して述べる。そして、この部分をヘーゲルの社会哲学と『法の哲学』の対話的構造におかなければならないと論ずる。これを証明するため、『法の哲学』の「倫理」(Sittlichkeit)に関する市民社会と国家の構造との関係を概観しながら、ヘーゲルの完全刑罰論には、犯罪の予防と精神の改善も含まれていることを示す。以下の研究で、報復のみの論よりも複雑化された刑罰論を明らかにできると論じた。
Journal of the American Philosophical Associationに投稿しました。
Putting Ruist and Hegelian Social Thought in Dialogue
 本論文では、ヘーゲルによる儒教思想の解釈を考慮し、ヘーゲルの思想は儒教思想の洞察を受け入れられないと論じ、ヘーゲルと儒教の5ヶ所における類似点を挙げる。まず、ヘーゲルがベルリンで講義した『宗教哲学講義』(Vorlesungen über die Philosophie der Religion)と『歴史哲学講義』(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)を中心にヘーゲルの中国思想に対する取り扱いをまとめる。そして、ヘーゲルのみならず、ヘーゲルのような哲学は西洋外の思想と統一できないと論じる。この根本的な非互換性があるにもかかわらず、5ヶ所の類似を特定し類似点を検討する。第一に、有機的な家族および人格関係を根本とする社会論を持つことを述べる。第二に、ヘーゲルのCultusは儒教の禮(li,礼)と同じ社会的な役割を果たすことを指摘する。第三に、ヘーゲルの必然性と儒教における命(ming)の行政的必要性を説明する。第四に、ヘーゲルの国王と儒教の聖王の人格に関係する社会に対しての重要性を挙げる。最後に、社会に生まれた風俗を批判および改善するツールとしてのヘーゲルの理性(Vernunft)と儒教の仁(ren)と義(yi)を比較する。
Philosophy East and Westに投稿しました。
Faith, Recognition, and Community: Abraham and “Faith-In” in Hegel and Kierkegaard
 本稿は「faith-in」(誰かに対する信仰)および Kvanvigが「belittler objection」(罵倒する異議)と呼ぶ概念をヘーゲルとキルケゴールのアブラハム解釈から見ていく。まず、ヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』を「faith-in」に対する異議として解釈しており、これに基づいて、他のヘーゲルの著書からヘーゲルの異議は神命説のような倫理は社会の価値観と考慮からくる倫理論は原因ではないかと主張している。そして、キルケゴールが沈黙のヨハネスという仮名で書いた『畏れとおののき』へとキルケゴール自身の『愛の業』へと自身の緩和した神命説の倫理論を主張しながら、「faith-in」を擁護していた。最後に、belittler objection」(罵倒する異議)は社会からくる倫理論の代わりに、倫理論として神命説にしているという異議のことである。
American Catholic Philosophical Quarterlyに投稿しました。
How Relational Selfhood Rearranges the Debate between Feminists and Confucians
 本稿はStephanie Komashinと共同研究し、儒教思想家とフェミニズムの議論を改めて見ていった。私たちは「儒教思想家」と「フェミニズム」の賛否を判断する前、各々の用語を定義する必要があるといえよう。当然のことながらフェミニズムと儒教思想家はいくつかの点において異なっているが、いずれも西洋近代哲学が主張した自己を批判し、人格関係(あるいは人間関係)に基づいている自己を主張する共通点があると論じられよう。そして、フェミニズムまたは儒教思想の流派の間に及びの中に、その自己はどの程度まで人格関係であるまたはすべきであるということに基づいている議題になっているのである。
Feminist Encounters with Confuciusに投稿しました。
Ethics is for Children: Revisiting Aristotle's Virtue Theory
 本稿では擬似アリストテレス道徳倫理のうちでは子どもでも道徳的行動者になれると提唱していく。これを論じるため、Daryl Tressや他のアリストテレスの子ども論の研究及びAckrillとNagelの『ニコマコス倫理学』にある動機論の解釈を組み合わせ、アリストテレスの倫理に子どもはどのようにみなされていたかというテーマを調べた。これでは、子どもは大人になる成熟の期間がまだ経ってないため、道徳的行動者であることを否定したことをアリストテレスが説明したのであった。しかし、他の考え方からはじめると、子どもは独自なエウダイモニア(幸福)を持っており、道徳的行動者になる方法はあると論じたのである。この論証の中心には、子どもは人間にふさわしい 卓越性を既に兼ね備えていてその一部としての 継続的な成長を含めることができるとしたのである。
Philosophy of Childhood: Exploring the Boundariesに投稿しました。
How Kierkegaard can Help Us Understand Covering in Analects 13.18.
 本稿では、キルケゴールの『愛の業』にある「愛は 多くの罪をおおうものである」と言う検討が、『論語』13章18節の 「隠」の解釈に貢献できると論じている。まず、キルケゴールの『愛の業』にある「隠」、「おおう」のそれぞれの役割を説明しており、現代的中国哲学の「隠」 に関しての討論に応用し、特に「隠」は「隠す」または「正しくする」のどちらがあてはまるかを検討したのである。そして、『論語』にある倫理は現代の道徳哲学として認められるかどうかについて検討し、本研究では「隠」の解釈を「隠す」とする解釈が最善であると提唱している。
Asian Philosophyに投稿しました。
Mobile-CALT: A Practical Guide for Using Cell Phones for CALT
 本研究では北海道教育大学旭川校で平成26年度の前期に、携帯電話を基盤とした(CALT、Mobile-CALT)語学テスィングの実施について述べていく。まず、携帯電話を使用した実施の動機及び背景を説明し、これは今までのモバイルアシストラーニング(MALL)文献及び日本国内実践の中に置く。また、 Google Formsおよび bit.ly およびQRコードが使う手続きを述べる。 最後に、Mobile-CALTの実践的効果と有効性が進められる状況を述べていくのである。
OnCue Journalに投稿しました。
Critical Thinking and Normative Competencies for Sustainability Science Education
 本稿では、我々はESD(education for sustainability development) に必要な能力の仕組みを及べ、クリティカル シンキング(批判的思考)が中核的能力と規範倫理を鍵とする能力であると論じている。それに基づいて、本能力を教える教育方法を開発し、北海道大学のサステイナビリティ学教育研究センターで行った教育結果を分析し、その概要と教育に対する結果を評価している。最後に、ESDに必要なクリティカル シンキングのためには理論的なクリティカル. シンキングのフレームワークと教授法の改善が必要だと結論に達したのである。
高等教育ジャーナルに投稿しました。
Education and Capacity Building with Research: a possible case for Future Earth
 本論ではアジア太平洋地域に世界的な地球環境研究プログラムであるFuture Earthにおける8つの利害関係者モデルとどのような能力が必要になるかについて、教育とキャパシティ・ビルディングプラトフォルムを提案している。(地球環境問題において)われわれの世界が直面している問題はクリティカル シンキング(批判的思考)とトランスフォーメーショナル(変革的)・リーダーシップ(Transformational leadership)、そして、規範的倫理能力のそれぞれの育成が必要であることだと論じている。この議論のために、哲学とリーダーシップ学と倫理学に基づいて、上記の能力の定義を明瞭にし、我々はこうした育成プログラムは現在の研究プロジェクトとシステムをベースに広げることは可能と主張している。
International Journal for Sustainability in Higher Educationに投稿しました。
A Hegelian Approach to Applied Ethics and Technology
 本稿では、ヘーゲルの『小論理学』における「客観」(独:Das Objekt)は現代の科学開発にも対応できる倫理構造をもつということを根拠として論を進めていく。まず、現在の科学的発展は道徳に問題といえるものを生じさせると論じ、次いで、ヘーゲルにおける「客観」という概念の定義が、ヘーゲルの自然法によって定められていることを示す。そして、客観の三つの種類、物理的、化学的、社会的客観を区分するが、この三つは各々異なる客観性に基づいている。この差異を用いて、現代の倫理にふさわしい客観は社会的客観であることを示した上で、社会的客観は様々な科学的展開を受けても耐えうる仕組みを与えると論じたのである。
Applied Ethics:Ethics in an Era of Emerging Technologiesに投稿しました。
Anti-Climacus's Pre-emptive Critique of Heidegger's “Question Concerning Technology
 本稿では、ハイデッガーの『技術への問い』とアンチ・クリマックス(キルケゴールの仮名)の『死にいたる病』を比較していく。まず、技術が技術利用者を本来性(Eigentlichkeit)から如何に引き出しているかという問題を焦点に、ハイデッガーの論文を簡単に解説する。ハイデッガーにとって、自己と正しく関連づけられないことは、非本来性(Uneigentlichkeit)と呼ぶべき状況であり、究極の可能性(すなわち死)に向かう実存において、適切な関連づけとは本来性(Eigentlichkeit)と呼ぶべき状況だといえよう。そしてこの区別を、アンチ・クリマックスが『死にいたる病』で提示する絶望の説明と対比させていく。アンチ・クリマックスにとって絶望とは、自己が適切に関連づけられない場合に必然的に生じる心理的な概念であり、ハイデッガーの非本来性という概念は、アンチ・クリマックスにおける心理的な意味での「絶望」の一種であると論じられる。さらに、アンチ・クリマックスの議論はハイデッカーを超えて、ハイデッカーの本来性自体も「絶望」の異なる形態と認めて、神への信仰という関係を通じて自己を正しく関連づけることとして、ハイデッガーにとっての本来性より本来的実存であると論じられるのである。
International Philosophical Quarterlyに投稿しました。
博士論文
 博士論文では、道徳的自己における人間関係を主張した。第一章では、カントによる 道徳的自己の概念を検討し、それが普遍的でありながら動的ではなく人間関係を扱うものでもない、としたのである。続く第二章では、ヘーゲルのカント批判をベースにして、カントの自己概念の構造では人間関係を論じえないため、不十分であると論じている。その上で、孔子とレヴィナスとキルケゴールとの関係に基づいて道徳的自己を比較し、孔子における儒教思想は自己を社会に基づいて存在するものとして捉えるが、それは特定の文化への完全な依存を意味するため、普遍的な道徳を形成するためには不十分である、と述べた。また、レヴィナスの学説を鑑み、その思想が他者との関係に基づいて人間関係を解釈するものであり、そのため「他者に対する責任」は「全ての人間に対する正義」と合致しえない、と指摘した。最後に、キルケゴールの学説を検討し、キルケゴールの自己概念は、自己の根拠(神)と自己の関係を通じて、自分自身と自らを関係させるものだと論じたのである。こうした概念によって、普遍的な合理性への要求が得られるが、こうした神学的な議論は一般的には受け入れがたいものである、との結論に至った。
other
Maybe Happiness Is Loving Our Fathers: Confucius and the Rituals of Dad
 本稿では父としての愛を主張する。孔子の『論語』を検討し、羊泥棒に対する孔子の教えとプラトンの『エウテュプロン』でのやりとりを比較することで、最も大切なことがルールの遵守ではなく、父親のような愛情あふれる関係の中で生きることである、という考察を導き出していく。その上で、マタイの福音書15章の放蕩息子の比喩を実例として用いて、筆者の考察について説明するのである。
Fatherhood and Philosophyに投稿しました。
A Transcendental Phenomenology that Leads out of Transcendental Phenomenology: Using Climacus' Paradox to Explain Marion’s Being Given
 本稿では、ソーレン・キルケゴールの仮名であるヨハネス・クリマカスとジャン=リュック・マリオンの啓示について、現象論的な説明を比較している。クリマカスのパラドックスの概念とマリオンの飽和現象の概念を結び付けることで、私はこの二つの理論の類似点を擁護し、マリオンの飽和現象の概念の明快さを非難した。はじめに、私はデカルトやカントから超越的自我が受け取ったフッサールの『デカルト的省察』に対するマリオンの自己主義傾向への批判を説明した。次に、マリオンがどのようにして飽和現象の概念を動機付けるためにこれを使っているかを考察した。最後に、クリマカスのパラドックスは、同じ目標をより哲学的な方法で達成していると論じた。
Quaestiones Disputataeに投稿しました。
歴史と哲学の方法:ヘーゲルとStewartと中国における宗教
ヘーゲルの宗教哲学講義に対する研究のほとんどは宗教の定義またヘーゲルの基督教は完成された宗教の解釈に焦点している。Jon Stewartの『Hegel's Interpretation of the Religions of the World』は現代の研究の中で唯一に規定された宗教を中心している。本論文に、私は3つの点からStewartを批判している。まず、Stewartはヘーゲルの宗教講義の進化と変化をまとめ方により、重要な変更を隠している。そして、Stewartは中国思想を描写するように基づいて、ヘーゲルに非根拠的な擁護を作り出している。最後に、もしこの2点を直したにも、Stewartはヘーゲルの方法論を勘違いしているから宗教哲学講義を歴史として読み間違っている。
Owl of Minervaに投稿しました。