研究業績の概要 ー コマシンスキ・アンドリュー

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研究業績について

本ページに、私が拙稿した研究業績の日本語の概要をおいております。 履歴書の全体をみるのはこちらです。
Hegel's Complete Views on Crime and Punishment
Journal of the American Philosophical Associationに近刊予定です。
Faith, Recognition, and Community: Abraham and “Faith-In” in Hegel and Kierkegaard
 本論文は「faith-in」(誰かに対する信仰)および Kvanvigが「belittler objection」(罵倒する異議)と呼ぶ概念をヘーゲルとキルケゴールのアブラハム解釈から見ていく。まず、ヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』を「faith-in」に対する異議として解釈しており、これに基づいて、他のヘーゲルの著書からヘーゲルの異議は神命説のような倫理は社会の価値観と考慮からくる倫理論は原因ではないかと主張している。そして、キルケゴールが沈黙のヨハネスという仮名で書いた『畏れとおののき』へとキルケゴール自身の『愛の業』へと自身の緩和した神命説の倫理論を主張しながら、「faith-in」を擁護していた。最後に、belittler objection」(罵倒する異議)は社会からくる倫理論の代わりに、倫理論として神命説にしているという異議のことである。
American Catholic Philosophical Quarterlyに投稿しました。
How Relational Selfhood Rearranges the Debate between Feminists and Confucians
 本論文はStephanie Komashinと共同研究し、儒教思想家とフェミニズムの議論を改めて見ていった。私たちは「儒教思想家」と「フェミニズム」の賛否を判断する前、各々の用語を定義する必要があるといえよう。当然のことながらフェミニズムと儒教思想家はいくつかの点において異なっているが、いずれも西洋近代哲学が主張した自己を批判し、人格関係(あるいは人間関係)に基づいている自己を主張する共通点があると論じられよう。そして、フェミニズムまたは儒教思想の流派の間に及びの中に、その自己はどの程度まで人格関係であるまたはすべきであるということに基づいている議題になっているのである。
Feminist Encounters with Confuciusに投稿しました。
Ethics is for Children: Revisiting Aristotle's Virtue Theory
本研究では擬似アリストテレス道徳倫理のうちでは子どもでも道徳的行動者になれると提唱していく。これを論じるため、Daryl Tressや他のアリストテレスの子ども論の研究及びAckrillとNagelの『ニコマコス倫理学』にある動機論の解釈を組み合わせ、アリストテレスの倫理に子どもはどのようにみなされていたかというテーマを調べた。これでは、子どもは大人になる成熟の期間がまだ経ってないため、道徳的行動者であることを否定したことをアリストテレスが説明したのであった。しかし、他の考え方からはじめると、子どもは独自なエウダイモニア(幸福)を持っており、道徳的行動者になる方法はあると論じたのである。この論証の中心には、子どもは人間にふさわしい 卓越性を既に兼ね備えていてその一部としての 継続的な成長を含めることができるとしたのである。
Philosophy of Childhood: Exploring the Boundariesに投稿しました。
How Kierkegaard can Help Us Understand Covering in Analects 13.18.
 本論文では、キルケゴールの『愛の業』にある「愛は 多くの罪をおおうものである」と言う検討が、『論語』13章18節の 「隠」の解釈に貢献できると論じている。まず、キルケゴールの『愛の業』にある「隠」、「おおう」のそれぞれの役割を説明しており、現代的中国哲学の「隠」 に関しての討論に応用し、特に「隠」は「隠す」または「正しくする」のどちらがあてはまるかを検討したのである。そして、『論語』にある倫理は現代の道徳哲学として認められるかどうかについて検討し、本研究では「隠」の解釈を「隠す」とする解釈が最善であると提唱している。
Asian Philosophyに投稿しました。
Mobile-CALT: A Practical Guide for Using Cell Phones for CALT
 本研究では北海道教育大学旭川校で平成26年度の前期に、携帯電話を基盤とした(CALT、Mobile-CALT)語学テスィングの実施について述べていく。まず、携帯電話を使用した実施の動機及び背景を説明し、これは今までのモバイルアシストラーニング(MALL)文献及び日本国内実践の中に置く。また、 Google Formsおよび bit.ly およびQRコードが使う手続きを述べる。 最後に、Mobile-CALTの実践的効果と有効性が進められる状況を述べていくのである。
OnCue Journalに投稿しました。
Critical Thinking and Normative Competencies for Sustainability Science Education
 本論文では、我々はESD(education for sustainability development) に必要な能力の仕組みを及べ、クリティカル シンキング(批判的思考)が中核的能力と規範倫理を鍵とする能力であると論じている。それに基づいて、本能力を教える教育方法を開発し、北海道大学のサステイナビリティ学教育研究センターで行った教育結果を分析し、その概要と教育に対する結果を評価している。最後に、ESDに必要なクリティカル シンキングのためには理論的なクリティカル. シンキングのフレームワークと教授法の改善が必要だと結論に達したのである。
高等教育ジャーナルに投稿しました。
Education and Capacity Building with Research: a possible case for Future Earth
 本論文ではアジア太平洋地域に世界的な地球環境研究プログラムであるFuture Earthにおける8つの利害関係者モデルとどのような能力が必要になるかについて、教育とキャパシティ・ビルディングプラトフォルムを提案している。(地球環境問題において)われわれの世界が直面している問題はクリティカル シンキング(批判的思考)とトランスフォーメーショナル(変革的)・リーダーシップ(Transformational leadership)、そして、規範的倫理能力のそれぞれの育成が必要であることだと論じている。この議論のために、哲学とリーダーシップ学と倫理学に基づいて、上記の能力の定義を明瞭にし、我々はこうした育成プログラムは現在の研究プロジェクトとシステムをベースに広げることは可能と主張している。
International Journal for Sustainability in Higher Educationに投稿しました。
A Hegelian Approach to Applied Ethics and Technology
 本論文では、ヘーゲルの『小論理学』における「客観」(独:Das Objekt)は現代の科学開発にも対応できる倫理構造をもつということを根拠として論を進めていく。まず、現在の科学的発展は道徳に問題といえるものを生じさせると論じ、次いで、ヘーゲルにおける「客観」という概念の定義が、ヘーゲルの自然法によって定められていることを示す。そして、客観の三つの種類、物理的、化学的、社会的客観を区分するが、この三つは各々異なる客観性に基づいている。この差異を用いて、現代の倫理にふさわしい客観は社会的客観であることを示した上で、社会的客観は様々な科学的展開を受けても耐えうる仕組みを与えると論じたのである。
Applied Ethics:Ethics in an Era of Emerging Technologiesに投稿しました。
Anti-Climacus's Pre-emptive Critique of Heidegger's “Question Concerning Technology
 本論文では、ハイデッガーの『技術への問い』とアンチ・クリマックス(キルケゴールの仮名)の『死にいたる病』を比較していく。まず、技術が技術利用者を本来性(Eigentlichkeit)から如何に引き出しているかという問題を焦点に、ハイデッガーの論文を簡単に解説する。ハイデッガーにとって、自己と正しく関連づけられないことは、非本来性(Uneigentlichkeit)と呼ぶべき状況であり、究極の可能性(すなわち死)に向かう実存において、適切な関連づけとは本来性(Eigentlichkeit)と呼ぶべき状況だといえよう。そしてこの区別を、アンチ・クリマックスが『死にいたる病』で提示する絶望の説明と対比させていく。アンチ・クリマックスにとって絶望とは、自己が適切に関連づけられない場合に必然的に生じる心理的な概念であり、ハイデッガーの非本来性という概念は、アンチ・クリマックスにおける心理的な意味での「絶望」の一種であると論じられる。さらに、アンチ・クリマックスの議論はハイデッカーを超えて、ハイデッカーの本来性自体も「絶望」の異なる形態と認めて、神への信仰という関係を通じて自己を正しく関連づけることとして、ハイデッガーにとっての本来性より本来的実存であると論じられるのである。
International Philosophical Quarterlyに投稿しました。
博士論文
 博士論文では、道徳的自己における人間関係を主張した。第一章では、カントによる 道徳的自己の概念を検討し、それが普遍的でありながら動的ではなく人間関係を扱うものでもない、としたのである。続く第二章では、ヘーゲルのカント批判をベースにして、カントの自己概念の構造では人間関係を論じえないため、不十分であると論じている。その上で、孔子とレヴィナスとキルケゴールとの関係に基づいて道徳的自己を比較し、孔子における儒教思想は自己を社会に基づいて存在するものとして捉えるが、それは特定の文化への完全な依存を意味するため、普遍的な道徳を形成するためには不十分である、と述べた。また、レヴィナスの学説を鑑み、その思想が他者との関係に基づいて人間関係を解釈するものであり、そのため「他者に対する責任」は「全ての人間に対する正義」と合致しえない、と指摘した。最後に、キルケゴールの学説を検討し、キルケゴールの自己概念は、自己の根拠(神)と自己の関係を通じて、自分自身と自らを関係させるものだと論じたのである。こうした概念によって、普遍的な合理性への要求が得られるが、こうした神学的な議論は一般的には受け入れがたいものである、との結論に至った。
Maybe Happiness Is Loving Our Fathers: Confucius and the Rituals of Dad
 本論文では父としての愛を主張する。孔子の『論語』を検討し、羊泥棒に対する孔子の教えとプラトンの『エウテュプロン』でのやりとりを比較することで、最も大切なことがルールの遵守ではなく、父親のような愛情あふれる関係の中で生きることである、という考察を導き出していく。その上で、マタイの福音書15章の放蕩息子の比喩を実例として用いて、筆者の考察について説明するのである。
Fatherhood and Philosophyに投稿しました。
A Transcendental Phenomenology that Leads out of Transcendental Phenomenology: Using Climacus' Paradox to Explain Marion’s Being Given
本論文にマリオンという現代現象学者の「飽和 した現 象(phénomène saturé)」という概念を キルケゴールのクリマカスの『哲学破片』から批 判しました。
Quaestiones Disputataeに投稿しました。